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橋本努講義

人文科学入門 2010年度 小レポートのサンプル 2

 

 

ルソー「エミール」の教育論

毛利 健志

提出日 6月9日

 

ルソーの言う「自然秩序」によって誰もがみな平等であるということには納得がいく。自然状態では権利という言葉が浮上してこないため、争いごともそこにはない。だが一旦権利や権威といった社会的な力が入り込んでくると、そこには混沌が生じる。そのため、社会を平定するための秩序が必要となる。ルソーは「社会秩序」を次のように定義していた。すべての人は地位が定められており、その地位のために教育されなければならないし、その地位からはずれたものは役に立たない。権威を地位とみるならば、社会秩序は教育によって保たれるとも解釈できる。実際、ルソーの教育論はとてつもなく哲学的であり、説得力のあるものだった。

ルソーは子供の教育指針を細かく分析し、どのように教えるべきなのかをとことん考え詰めた結果、ある一つの結論にたどりついた。あらゆるよいもののなかでいちばんよいものは権力ではなく自由であることに気がついた彼は、その自由についても考えた。自分ができることだけを欲し、自分の気にいったことだけをすることこそ自由だと感じた彼は、しかし子供たちにそうなのだとは語らなかった。自由な自然の生徒というのは、他人に助けを求めず自分で行動を起こすものであり、かつ自分の知識を自慢しない。自分にふさわしいことしかしないので、はやくから豊かな経験をし、肉体と精神が同時に鍛えられていく。そういう子供たちを育てるためには、教師がいろいろと口を出すよりも、子供たち自らいろんな出来事を経験しに行かなくてはいけないと、そのことをも自ら自覚するまでではいけないと考えたのだ。これほど深い教育論を聞かされたのは初めてであり、また次に説明するルソーの言葉のうちのどこにも非の打ちどころのないことにただただ驚き感心するばかりである。

こどもは道徳秩序や社会的な効用などに属する事柄は理解できないので早くから示すべきではない。教師がすべきことは教えることではなく見守ることである。美徳や真理を教えるのではなく、心を不徳から、精神を誤謬から守ることが重要である。そうして子供たちが自ら欲望と能力をバランスよく鍛え上げていくことで、均衡のとれた幸福の状態を作っていくのである。そのために必要なことがまだ何点か残されている。まず、もっともよく人生を体験するために活動していることが大事だという。活動は経験につながっていく。たとえ子供がけがをしたとしても、それは苦痛がどういうものなのかを経験させるよい機会なのである。さらに観念を重視するルソーは、語彙をできるだけ少なく教える(というよりは学ばせる)ことを説いた。言葉は社会秩序を混乱に貶める原因になるとも考えられる。そして人が、欲求ではなく習慣によって動いてしまうことを嘆いた。本来欲求に基づいて行動するはずの行為が習慣化されてしまい規則化されてしまうことは、危険を察知する能力が低下し、人としての堕落に映る。ゆえに避けるべきことだと説いた。

以上、ルソーの奇抜な教育論をまとめてみたが、前述の通りまったく非の打ちどころがないことに驚かされる。しかし、現在の複雑な社会からしてこれらの教育を導入することは、混乱をもたらしかねないことから難しいだろう。

 

 

ルソー『エミール』

経済学部 丑屋亜子

2010年7月20日

 

 特に教育関係に興味があるわけではない私にとっても、この『エミール』はとても読みやすく、興味の沸きやすい著作となっている。私は『エミール』に関して肯定できるところがいくつかあるが、完全に肯定できるものは少ない。以下に彼の主張に疑問を抱いたところを述べる。

 まずルソーは、子供の教師は若くなければならないと主張している。これは教師自身が子供であれば、生徒の友達になって一緒に遊びながら信頼を得ることができるが、子供と成熟した人間の間には共通点がなく、固い結びつきができないからである。確かに、教師が若いほど子供は親近感を持ちやすい傾向はある。しかしそれよりも大切なのは、年齢ではなく、その教師の人間性や性格ではないだろうか。仮に若い教師であってもいつも暗くて声が小さければ子供たちは不信感を抱くかもしれないし、逆に年配の教師であっても明るくて頼りになるような人であれば信頼感を抱く。また、年配の教師には経験が豊富で、筋の通ったことを言う人が多い。したがって、子供の教師は若くなければならないという主張はその理由に根拠がなく、間違っていると思われる。

 また彼は、自分で実行することが大切であるとしている。私は基本的にはこれに賛成である。勉強というのは、人に教わることよりも自分で考えて答えを導くことによって行うものであるべきだからである。できるだけ他人に助けを求めず、まずは自分で判断し、推論することは自分にとってよりよい経験になるであろうし、また社会に出ても他人に依存しない自立した人間になる第一歩となるであろう。しかしながら、これを追及しすぎてしまうと、独りよがりな人間になってしまう可能性がある。たとえ自分に関係するあらゆることを心得ていたとしても、世間で行われていることを知らなければあまり意味はなくなってしまう。社会においては他人と共存して生きていくのだから、独りよがりな状態ではうまく暮らしていくのが難しいだろう。

 そして彼は、競争させないということも述べている。かけくらべをするときでも競争相手のことを考えさせず、嫉妬心や虚栄心によってしか学べないことは学ばないほうがましだという考えである。確かに嫉妬心などにとらわれ過ぎてしまうと、本来の目的を見失って、相手のことばかりを気にしてしまうことはあるだろう。しかし、相手に勝ちたいという気持ちは学習などの意欲につながることもあり得る。また、相手を気にすることは自分とは違った一面を覗くことにもなり、さらなる学習の発展にもつながるだろう。

 さらに彼は、書物が子供に最大の不幸をもたらすとし、取り上げるべきとした。読書は子供時代にとっての災厄で、しかも人が子供に与えることができる唯一の仕事になっているのである。しかし私はこれには反対である。書物というのは、さまざまな人の考えを知る1番の機会であると考える。自分にはない新しい思想などを読むことは、自分の考え方をより深めることになるのではないだろうか。

 ルソーが主張していることは、他人に頼らず、自分で何とかやっていくべきであることだと私は解釈した。しかし、他者と暮らしていく社会の中ではもっと大切なことがあるのではないだろうか。

 

 

ルソー『エミール』について

我孫子 遼 経済学部 2010725

 

ルソーが『エミール』の中で述べている教育論に対し、私は疑問や反感の念を抱くところがいくつもあった。それは私を約18年間育ててきてくれている両親の教育方針と反するところが存在したり、現代の教育における一般論と乖離するところがあったりするからであると私は考える。ここで、まず先生がおっしゃっていたことを思い出してみたい。いつかの講義で先生は、「親元から離れたい、親なんかから解放されたいと思っている人もいるのではないだろうか」と問いかけたことがある。私がこの時抱いた思いは、「一人暮らしは自立のために必要である。しかし、解放されたいなどと思ったことはない」である。私は両親を本当に尊敬しているし、両親の教育のおかげで、今幸せな生活を送ってこられているのだと、そう考えている。だから両親の考えと反するものに対して、疑問や反感を抱くのかもしれない。

 勿論、全てに納得できないわけではない。こどもが豊かな創造性を持つようになるため、学問を愛するようになるため、自発的に学ぶようになるために、ルソーが述べた、「教えすぎない」こと「自発的な探求へ導く」ことは重要である。全ての物事、又は、たいていの物事について、指針、導きを示してあげることは愚行である。こどもは何も考えなくなるだろうし、どうすればいいのか、導きを与えられないと何も出来ない無意味な人間と化してしまうだろう。現代において求められているのは、創造性豊かな人間、自発的に活動できる人間である。「最近、そのような生徒も減ってきている」と私の高校時代の恩師もおっしゃっていたし、そのような人間が必要とされている現実から、「教えすぎない」こと、「自発的な探求へ導く」ことは重要であると私は考える。 

ルソーが言いたいことは分かるような気がする。確かに、自分から行動できる人間になれるように育てることは重要であると思う。しかし、あまりにも「放任主義」的なところが有り過ぎはしないだろうか。

例えば、「けがを配慮しない」ということについて言及したい。ルソー曰く、「子どもがけがをしてもわたしはあわててかけよるようなことはしない」とある。「苦痛を味わうこと、苦しむこと、それを知ることが将来もっとも必要になること」とルソーは言っている。果たしてこれは正しいのだろうか。私の考えとして、子どもはいっぱいの愛を受けて育つべきである。勿論溺愛するのはよくない。が、上で述べたルソーの行動はあまりにも非情過ぎる。愛の鞭なのかもしれないが、子ども自身それを感じること、理解することは出来るのだろうか。私の考えでは、それは無理だと思う。愛を感じることが出来ずに育った子供は、愛を知ることがない。故に自らの子供に愛をそそぐこともできない人間になってしまう。それは、「教育」の立場に立った時、プラスになるとはとても言い難い。

 以上述べてきたように、こどもを教育する上で大切なことは「子どもに愛されている、守られていると感じさせること、かつ、導きを与え過ぎない、手をかけ過ぎない」このようなバランスが最も大切なことであると私は考える。

 

 

「『エミール』について」

2010/06/05 佐藤 功太郎

 

 今回の授業で取り上げられたルソーのエミールについて、レジュメを参考に自分の中で6つ程要点を取り上げてみた。その要点というのは・・・

 (1)自然に帰って教育すべきである・(2)子供を教師にするべきである

 (3)子供を強く育てるべきだ・(4)経験し実践を積むことが肝心である

 (5)本や知識は必要ない・(6)自律し社会から独立すべきである

これらについて、一つずつ私の意見を述べていきたい。

(1)まずルソーは、幼少期の子供は田舎に送り大自然の中で生活させるべきであると主張する。「エミール」の中でルソーは一貫して“都市や社会=×、田舎や自然=○”という立場をとっているが、都市や田舎はともかくとして大自然の中で暮らすというのは子供にとって必要であると私は思う。そして、自然や他の子供たちというコミュニティーの中で感性を磨き基本的なコミュニケーション能力を身に着けることはきわめて重要ではないだろうか、ここはルソーに賛成する。

(2)しかし、またルソーは同じ子供を教師にすべきだとも言う。これは素直に受け入れがたい。確かに同じ子供であって自分をリードしてくれる存在がいることはとても望ましいと思われるが、未発達な子供だけでは問題が生じるだろう。やはり成熟したおとなの存在が必要なのではないか。

(3)もう一つ、ルソーが子供を教育する上で強調しているのが、子供を強く育てるということである。ルソー曰く「悪とは弱さ、強くなれば善くなる。」ということだそうだ。これについては(6)でまた述べる。とはいえ、精神と肉体を同時に鍛えるというルソーの考えは「文武両道」の考えにもつながり賛成だ。

(4)さらにルソーは、“実践知”つまり実際に体験することによってことを重視する。

ある物事に対して知識を持っているということと、それができるということは決してイコールにはならない。どちらの方が価値があるといえるだろうか。私は「使える」ことの方が価値があるように思えるが、一番望ましいのは「知っていて」「使える」ことに他ならない。これは知識優先の現代の詰め込み教育にも言えることだが、知識と実践、どちらかに偏ることが一番良くないことではないだろうか。

(5)しかし、ルソーは「本は捨てろ、知識は必要ない」と言う。これは授業で先生が仰ってたように「子供は小さい頃から議論をするべきだ。」と言ったジョン・ロックの主張を意識しているようである。だがしかし、これは暴論ではないだろうか。体験できることには限界がある(これは知識についても同様であるが・・・)。それを補い、より人間としての深みを増すためにも本を読むことは大切であると思う。

(6)そして、ルソー流教育の最終目的は、誰からも干渉を受けることなく、また誰に対しても干渉することのない、社会から独立した、自由で強い人間を育てることである。これこそまさにルソーの「社会契約論」にある、「自然状態」における自由な人間の姿であろう。人は弱いからこそ社会を作るのであり、強い人間になれば社会の中で他の弱い人々とともに群れる必要などはない。そのような強い人間こそ「幸福」であり、弱い人々は「哀れむ」べき存在であるのだ。ルソーが理想とする人間像“エミール”とはつまり「社会」から「自然」へと帰った人間なのだ。

 私は、ルソーの教育方法に基本的には賛成である。しかし、子供に本は読ませないなど極端な主張には反対だ。“中庸”という言葉もあるように極端な教育方針を取るよりも読書や勉強もバランス良くやらせたほうが適応力がある人間に成長すると私は思う。

 

 

ルソー『エミール』

2010/07/21 富岡 悟

 

 今回講義で扱ったルソーの「エミール」に見る教育論は、奇抜な点も多いが、なかには共感出来る部分もあった。ただ、自分の考え方とは食い違う部分もあったので、追って考察していきたいと思う。またその際、現代日本に当てはめてみた場合にどうなるかということも考えていきたい。

 自らの理性を働かせて考えさせることが重要だというルソー考え方には共感できるものがある。権威への追従や、他人の庇護を必要とせず、自分ひとりで考え、動くことのできる人間は現代社会においてもまさに必要とされる人材であるように思える。そのための方法が「習慣になじませない」というのも納得できる。現代、特に日本においては顕著に現れていると思うが、俗にいう右へならえ主義、みんなと同じであることが正しいという風潮すらある。特に世間一般に認められた慣習、自分が昔から行ってきた習慣にならうのは、体を動かすのにいちいち頭を働かせる必要もないため、楽であり、例えそれが間違った行いであったとしてもそれに気づかないことが多い。ゆえに、睡眠や食事までも習慣に惑わされない教育は、自ら考え、行動する強い人間を育てることが可能だと思う。

 しかしながら、消極的な教育、教えすぎない教育の前提となっている「自然」の教育力とでもいうべきものに疑問を持たざるをえない。確かに自然に生き方を学ぶことはできるだろう。しかしそれは動物的な本能に従ったヒトとしての生き方であり、社会的な存在である人間としての生き方を学ぶのは無理であろう。ルソーは、小さい頃には全能感を身につけさせるために好き勝手させるようにし、豊かな見識を身につけた後に世間のしきたりを教えるように言っているが、まだ子供だからと言って嫌いな人を殺したり、人のものを奪ったりしていいという道理にはならない。ゆえに道徳や抑制を覚える過程には積極的に大人を介在する必要があるように思える。

もっともここに、教育はそもそも何の為にあるのか、という点で共感できない部分がある。私は教育の目的を、より良い個人を育て、その総体としての社会をより良いものとすることだと考えている。その点でルソーは純粋に教育のみを分離して考え、社会とは別に、理想的な人間、「エミール」を育てようとしているように思える。世間を汚く、堕落したものと考え、それを哀れませることで同じ人間になりたくないという意識をもたせるという考えからも分かる通り、いずれ「エミール」が世間の成員となることを想定していないように思える。「エミール」がルソー的に正しく教育されたモデルであり、その教育法を用いていずれ多くの「エミール」が存在することになった場合でも、世間は忌むべきもののままであり続けるのだろうか。個人−社会間の連関が解かれているためにこのような破綻が生じているのだと思われる。確かに、当時は現代と比べて、社会というシステムが確立しておらず、不安定なものであったということもある。それゆえにどんな環境でも生き抜ける、万能かつ特定の思考パターンを持たないプレーンな人材を育てようという考え方があったのかもしれない。しかしやはり、教育するためだけに教育する、というような状態になってしまうのは好ましくないと言える。

ここまで見てきた通り、ルソーの教育論は現代の常識を持った身からすれば違和感を覚える部分も多い。しかし、社会で生きることを前提とした現在の教育にとって見習うべき点もある。子供に自律させることや、活動を重視することはその最たる例に思える。古典となってなお目を見張る部分は多い。今回は時間の関係で本書を読むことはかなわなかったが、いずれ目を通しておきたいと思う。

 

 

2010/7/26

齋藤洋子

ルソー『エミール』

 

◆ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)

フランスの啓蒙思想家・小説家。出生はスイス。貧困の中で徒弟時代を過ごし、旧体制下のフランス・イタリアを放浪。19歳の時からバラン夫人のサロンに出入し、30歳の時パリに出て百科全書派と交流、『百科全書』に寄稿。その後も数々の著作を執筆。当時の人口的退廃的社会を鋭く批判、感情の優位を強調し、「自然に帰れ」と説き、ロマン主義の先駆をなした。思想、政治、教育、文学、音楽などの分野において根本的な価値転換作業を行ない、近代思想に多大の影響を与えた。主著は『人間不平等起源論』『新エロイーズ』『社会契約論』『エミール』など。

 

◆教育論『エミール』

「万物をつくるものの手をはなれる時すべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。」本書において、著者はまずこう唱える。このことは、もちろん我々人間にも同様に当てはまる。彼に、人間の「自然状態」は、人間は元来自由であり、自然権も調和して保たれていたが、悪い人間がその自由を奪ってしまったのだという。

彼の描く「教育者」の理想像は、子供の内なる「自然」、つまり人間の本能に従った教育―余計な物=文化や文明を排除した「消極教育」である。ルソーにとって、人為的な文化や文明は悪であり、これらは人間の自然を歪め、その人を悪にするものとしている。また、彼は知識の会得よりも感覚器官の訓練を重視した。その後に実物教育の下で判断能力を訓練していくことで、人間は自らの経験や感覚から知識を得ていくとした。そして、青年期の「第二の誕生」―社会的な誕生―においては、人間は「利己心の克服」を重視し、利己心を克服し、互いを思いやる良心のある社会をつくることを唱えた。

 

◆感想

 本書はおよそ250年前に発刊されたものであるが、テストや課題が繰り返される、知識の習得を土台にした教育の中で育てられた自分にとって、消極教育とはとても画期的で新鮮だと感じられた。もちろん、当時と現在では政治や社会の体制は全く異なるものであるが、それでもなお本書は私たちが学び取り、教育について再考すべき点を提唱しているように思う。例えば、小学校における「道徳」の時間である。私が小学生の時は、教科書を与えられ、「お年寄りを大切にしましょう」「嘘をついてはいけません」「人に優しくしましょう」というようなことを主題にしたエピソードを全員で読み、意見を出し合い、そして感想を求められた。しかし、この中には「自由」はなかった。すべての話し合いは教師によって最終的に上記の主題へと導かれ、それ以外の意見は無視された。なぜそうなのかなどということへの明確な説明はなされなかった。そして子供たちは回数をこなすごとに教師の喜ぶ「模範解答」をそのエピソードから読み取ることができるようになる。話し合いの中で、「間違い=不徳」は暗黙のうちに排除されるようになった。『エミール』において、ルソーは文明や文化が人間の自然を歪めると述べたが、それはこのようなことなのかもしれない。「道徳」という規範を与えられたことで、私たちは思考しなくなった。私は老人を大切にすることや、嘘をつかないことや、人に優しくすることを悪だと言っているのではない。それらのことを、私たちは与えられたエピソードからではなく、自分自身で学び取っていかなければならないのだ。上で述べたような教育では、ただ単に表面的な「道徳」しか与えられない。自分で経験し、感じ、判断することで、真にその「道徳」を手に入れることになるのではないか。教師はあくまでもその一助としての存在でしかないのである。この点で、私は『エミール』に共感した。本書はあくまでも家庭教育論であり、現代の学校における集団教育や、限られた時間のなかでそのまま実践するのは不可能であるかもしれない。しかし、教師の堕落、子供の犯罪、学校組織の腐敗・崩壊、そして親たちの過剰な行動など、現代の教育現場には様々な問題が存在している。そろそろ私たちは教育について根本的に見直さなければならないのではないだろうか。我々は、思考しなくてはならない。社会を作るのは人間である。無思考な人間が作るのは、無思考な社会でしかない。よりよい社会を作るためには、目先のことばかり気にするのではなく、未来を担う存在である子供たちへの教育をしっかりと考えることが必要とされるのではないか。

 

 

ルソー『エミール』について

笠原伊織  2010.7.23改訂

 

 『エミール』の中で語られているルソーの思想の中で賛成・共感できる部分をいくつか挙げていきたい。

 まず、ルソーは第一編の<活動重視の教育>の部分で、生きることは活動することである、と述べている。これは以前講義で扱ったアリストテレスのエネルゲイアの思想につながる。何も行動せず、変化を拒みながら生きていくよりも、ルソーやアリストテレスの言うように、活動的に行動し、自分の人生に能動的積極的である方が生きている実感を持つことができるし、人間は幸福であると思う。ルソーは子供の教育として語っているが、これは子供だけでなくどの世代の人間にも共通する理念だと思う。

 また、第二編でルソーは、将来に備える教育を批判している。これに関しても私は賛成だ。バランスの欠いた英才教育は子供の人格をゆがめてしまうし、将来のことばかり考えていては今の人生を充実させて生きていくことが難しくなる。青年期を迎えても将来のことをまったく考えないのはまずいと思うが、小学生中学生あたりの子供はそのときの生をどう充実させるかに専念すべきだし、親もそのように配慮するべきだろう。

 同じく第二編でルソーは<実践知>について語っている。私は実践知の重要性を認めるし、ルソーの言うことにも賛成できる。それでは大学などの高等教育機関の存在意義はなんだろう。私が考える高等教育機関の存在意義は、一つ目は多くの他者に出会えること、二つ目は自分の知らないことを学べること、三つ目はルソーの言う<哲学者>になれること、である。北大などの総合大学では、多くの他者に出会えて視野を広げることが出来るし、自分の興味のある分野以外のことも学べる。三つ目の<哲学者>とはルソーが第三篇で書いている<労働者=哲学者の理想>の考えにもとづく。ルソーはこの部分で「かれは農夫のように働き、哲学者のように考えなければならない」と書いている。農夫あるいは労働者には高等教育機関に行かなくてもなれるが、哲学者になるあるいは哲学者のように考えるようになるには高等教育機関に行ったほうがいいだろう。実践知を持ち、なおかつ哲学者のように考えることができる人間が理想だと思う。

 『エミール』の中の賛成・共感できない部分も挙げてみたい。

 まず、第一編の<子供=教育論>に私は反対である。年齢差があっては固い結びつきはできあがらない、というルソーの意見は確かに当たっている部分があるが、子供を成長させるのは必ずしも信頼や固い結びつきだけではないだろう。むしろ、圧倒的に自分より優れている人、なぜかわからないがすごいと思ってしまう人に子供はひきつけられ、その人の真似をしていくなかで成長していくのではないだろうか。子供同士の信頼関係や友情は教育とは少しはなれたところで築いていくものだと思う。

 もうひとつ私が賛成できないのは、第三編の<自律の美徳>の部分だ。わたしは人間とは相互に依存しながら生きていく動物だと思う。他者に自分の存在を認められ、自分も他者の存在を認めることで、人は尊厳を持って生きていくことができる。ある程度孤独を受け入れることも必要だが、まったく他人を度外視する生き方には賛成できない。

 ルソーの『エミール』はただ直感で書かれた本という印象が最初はあったが、だんだんとルソーの経験に基づいてよく考えて書かれた本であると感じるようなった。古典だから当然といえば当然である。これから教育について考えるときはぜひ参考したいと思う。

 

 

2010/07/25

ルソー「エミール」を読んで

教育学部 菅浪 萌

 

理想の教育とは、一体何なのであろうか。この問いは教育者にとって永遠の問いである。ソクラテスやプラトンなどの哲学者が生きていた頃から、哲学は根本的に「善とは何か」ということから始まり、理想の人間像を模索し続けてきた。時代は大きく異なるが、ここではルソーが思索し続けた結果たどり着いた理想の教育像について考えていこうと思う。

 ルソーの教育理想像の柱は「自発的な学びを大切にし、自然から多くを学ぶ」という姿勢であるといえる。学びは誰かに強制されてするものではない。教師は、生徒に物事について一から丁寧に教えるのではなく、むしろ生徒が時間をかけてでも自分で答えを導き出せるように手助けしてあげるべきである。また、何にも勝る学びの対象は自然である。「教育は生命とともにはじまり、私たちは、教師ではなく自然の弟子である」とルソーは言っている。

私は教育学部として、自分の考える理想の教育像というものを日々模索しているが、それがルソーの考える理想の教育像と重なる部分が多いことに気づいた。私の考える理想の教育像とは、「教育者が子どもに教えを説くのではなく、子どもが好奇心をもち自ら学びたいと思い、自分で抱いた疑問は自発的に解決していこうとし、自分でそれを解決できたとき、学ぶことは楽しいことだと実感し、また学びたいと思えるような環境を私たちがつくっていく」というものである。その基本概念は、「すべては好奇心からはじまる」ということだ。

例えば、少年が花にすがっている幼虫を見て、それがゆくゆくは蝶になることを知ったとする。なぜ緑色で棒のような形の生物が、何週間後には色鮮やかな羽を広げ空にはばたく蝶になってしまうのだろうか。そのような小さな疑問を抱いた少年は、自らの好奇心に導かれて答えを見つけ出そうとする。幼虫を見つけ、じっとそれを観察すると、幼虫はサナギに変身する過程を経て蝶になることを発見する。その事実を自分で発見した少年は、小さな喜びや感動を覚えるかもしれない。そしてまた新たなる発見を探し、自ら学ぶ楽しさに目覚める。

つまり、無理やり学ばせるのではなく、自発的に学ばせるのが大切である。なぜなら、新しい情報が入ってきたとしても、興味をもたないまま聞けば頭に何も入らないからである。

しかし、ここで問題が発生する。興味をもてないジャンルは誰にでもあるはずであり、それについては自発的に学ぼうとするのは難しい。自分の興味をひく事柄だけを学んでいくという手ももちろんあるが、そのような学び方ではすべての学問を網羅することはできない。また、労働社会で生きていくことも難しくなる。仕事につくには、自分の興味関心がないことでもこなしていかなければならないからだ。また、人間関係でもそうである。自分の本能ばかりで動いていては複雑な人間関係のある社会で生きていくことはできない。生きていく中で、自分の興味のない事柄についても学ばなければならないことを気づくときがいずれはやってくる。自ら好奇心をもち学ぶというのが理想ではあるが、それだけでは生きていくうえで必要な知識が得られないという現実もあるので、この点については「好奇心からの学び」という概念の克服すべき課題である。ただ、興味のない事柄について学ぶことによるプラスの効果も考えられる。まったく路線が違うようにみえる二つの事柄について、実は深いところでつながっていて興味があるのが片方だけだったとしても、興味のないもう片方を学ぶことによって見えてくるものもきっとあるはずである。したがって、意味のない学びなどないとも言えるだろう。こう考えると、興味のない事柄についても積極的に学ぶ必要があるように思える。これらを考慮すると、教育者にとって、幅広い分野においていかに子どもの好奇心をそそるように促せるかといことが大事になってくる。

以上、理想の教育像について考えてみたが、やはり「自発的な学びを大切にし、自然から多くを学ぶ」という姿勢が大事であるが、好奇心の起こさせ方について、まだ議論の余地があるように思う。